「戸隠(とがくし)」は、長野県の北部、妙高戸隠連山国立公園内の戸隠連山南麓に位置し、『戸隠神社』を中心とした神域と、戸隠高原、飯綱高原などの高原リゾートが同居する人気のエリアです。標高は1,200mから1,500mで、標高400mほどの長野市から車で50分ほどですが、標高差は1,000mにもなります。名物はそばで、『戸隠そば』として全国的に知られています。
『戸隠神社』の参道にある宿坊が建ち並ぶエリアは、昔ながらの参道風景を色濃く残す町並みとして、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
「戸隠」の名前には2つの伝説
高天原から岩の扉が飛んできて落ちた戸隠山
1つ目は、1,300年ほど前に編纂された日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』に書かれている日本創世記の伝説、「天岩戸(あまのいわと/あめのいわと)」の話です。神々が住む天上の国、高天原(たかまがはら)で起きた神々を統率する太陽神、天照大神(あまてらすおおみかみ・女神)が天岩戸に隠れてしまった事件で、力自慢の神、天手力雄命(あめのたぢからのみこと)が遠くに投げ飛ばした大きな岩の扉が長野の地に飛んできて、山になったというものです。岩でできた戸を隠した山ということで「戸隠山」と名付けられました。『戸隠神社』は、この神話をもとに、天手力雄命はじめ、天岩戸を開けることに功績のある神を祭神として祀り、2,000年以上前に創建されたと伝わっています。
九頭竜神を封じ込めた洞窟の扉説
2つめは、9世紀中頃に山中に修行に入った僧侶、学問行者(がくもんぎょうじゃ)が、山に住む水をつかさどる神“九頭竜神”を山中の岩屋(龍窟)に封じたので、“扉で龍神を隠した=戸隠”となったという説です。戸隠連山の山並みが龍に似ているからといわれています。
「戸隠」は修験道場として大きく発展
学問行者が開山した戸隠山には、平安時代末期に天台宗(てんだいしゅう)総本山比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の末寺として『戸隠山顕光寺(けんこうじ)』が開かれ、天台宗の修験道場として発展していきました。13世紀頃(室町時代)には、浄土真宗(じょうどしんしゅう)も戸隠山を修験道場としたため、周辺には“戸隠三千坊”といわれるほど宿坊が建ち並び、高野山(こうやさん)、比叡山と並ぶほどの修験者や参詣者が集まりました。善光寺(ぜんこうじ)から近かったこともあり、善光寺詣でのついでに顕光寺にお参りする庶民も多かったといわれています。
修験者たちは顕光寺周辺だけでなく、戸隠連山すべてを道場としていて、江戸時代に書かれた絵図には各山の山頂付近に修行をした洞窟が描かれています。
江戸時代までは「戸隠神社」と「顕光寺」が同居
現在では神社と仏閣が同居することはありませんが、江戸時代まではほとんどが同居する形をとっていました。「戸隠」でも『戸隠神社』と『顕光寺』は同居していたと考えられていて、江戸時代の絵図にも、お寺を表す“院”と付いた建物の前には、神社を表す“鳥居”が描かれています。
明治時代になり、“神仏習合”といわれた神社と仏閣の同居状態は、神道(しんとう/神社の宗教)を国教とする明治政府の方針により分離(神仏分離)することになります。同時に神社が主体となることから“廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”という運動が激しくなり、寺院から仏様が廃棄されたり、寺院自体が廃寺に追い込まれもしました。
「戸隠」でも、『顕光寺』が廃され『戸隠神社』のみになりました。『顕光寺』を構成していた“中院権現“や“奥の院”、“宝光院”などは、「中社(ちゅうしゃ)」「奥社(おくしゃ)」「宝光社(ほうこうしゃ)」などと呼び名が変わり、現在に至っています。『顕光寺』にあった仏像は廃仏毀釈時にほとんど壊されるか離散してしまい、『戸隠神社』にはわずかに法華経の経典『紙本墨書法華経残闕(しほんぼくしょほけきょうざんけつ)』(国の重要文化財)が遺っているだけです。
社務所が置かれ、御朱印がいただける「中社」
『戸隠神社』は、現在5つの神社で構成されています。中心的な社が「中社」です。2020年11月にカナダ産ヒノキを使って建て替えられた高さ11mの大鳥居があります。本殿は大鳥居から先の階段を上ったところにあります。境内はあまり広くなく、本殿も有名な神社の割に小さく質素なものです。観光バスの旅行者や立ち寄っただけの人たちは、『戸隠神社』はこの「中社」のことをいっていると勘違いしてここだけお参りして帰ることも多くなっています。御利益は学業成就、商売繁盛などです。御朱印もこちらでいただけます。
境内には樹齢7~800年の杉の巨木が3本(1本はご神木)あり、国の天然記念物です。
戸隠最大のパワースポット「奥社」
「奥社(おくしゃ)」は中社から4kmほど離れています。『戸隠神社』はこの「奥社」が本社です。「奥社」へは歩いてしか行けません。奥社入口から往復で1時間半ほどです。天岩戸を放り投げた天手力雄命を主祭神として祀っています。
「中社」から2kmほど歩くと奥社入口に到着します。入口までは車で行けます。また、路線バスもあります。ここから「奥社」までは2kmほどで、中間点の随神門(ずいしんもん)まではほぼ平坦な道です。随神門を堺に空気感が変わり、神域へ足を踏み入れたことが実感できます。参道の両側は大きな杉並木です。杉並木は国の天然記念物に指定されています。
徐々に上り坂がきつくなってきて、最後は石段を登ります。「奥社」の手前に小さな社があります。これが戸隠五社のひとつ「九頭竜社」です。
階段を上りきったところが「奥社」で、必願成就、五穀豊穣、必勝などのご利益があります。往復で90分ほどかかりますが、ここに行かずして『戸隠神社』に行ったことにはなりません。ゆっくりと時間を作って、ちゃんと歩ける服や靴を用意しましょう。絶対におすすめです。
戸隠山の地主神、九頭竜神を祀った「九頭竜社」
「九頭竜社」は水の神で、ご利益は雨乞い、なぜが虫歯、縁結びなどです。「奥社」へ上がる参道の途中、石段のところにある社なので、見逃さないように歩きましょう。九頭竜神は、戸隠開山の僧、学問行者が最初に岩屋に封じ込め、水の恵みを与え、災いを起こさないよう念じた神様です。
芸能、縁結びにご利益「火之御子社」
「宝光社」と「火之御子社」は「中社」から神道(かんみち)と呼ばれる参道を下ります。
「中社」から700mほどで「火之御子社」があります。1,100年頃創建された神社で、神仏習合の時代も神社として存在していました。「火之御子社」に伝わる『戸隠神社太々神楽(だいだいかぐら)』は、現在でも『戸隠神社』の特別な日に舞われています。主祭神は芸能の神様で、縁結びにもご利益があります。
お寺のような建物の「宝光社」
さらに700mで「宝光社」です。正面は街道から270段あまりの階段を上ります。江戸時代までは「奥の院(奥社)」「中院権現(中社)」と並ぶ戸隠の主要なお寺でした。社殿は1861年に再建されたもので、戸隠ではいちばん古いものです。建物は神社というよりお寺のような建物で、神仏習合時代の名残がここにあります。学問や技芸、裁縫などの上達にご利益があります。安産、女性の守り神としても知られています。
戸隠神社(中社)
住所:長野県長野市戸隠中社3506
電話番号:026-254-2001
参拝:自由
URL:https://www.togakushi-jinja.jp/
昔ながらの宿房が建ち並ぶ参道の町並み
「戸隠」は、“戸隠三千坊”といわれるほどの賑わいを見せていましたが、明治時代以降修験者が減り『戸隠神社』の参拝者が中心の門前町になりました。それでも「戸隠」の神秘的な力を授かろうと多くの参詣者が訪れ、宿坊を中心とした門前町は昔のままの姿をとどめています。1975年(昭和50年)には、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
山中のもてなし料理だった「戸隠そば」
信州はもともとそばの里ですが、「戸隠」では修験者の携帯食料として重宝されました。当時のそばの食べ方は今の“切りそば”ではなく、そば粉にお湯を足して練る“そばがき”です。江戸時代には神社の来訪者へのもてなし料理としてもそばがきが出されていました。
現在ではそばがきは“そばきり(切りそば)”に変わりましたが、このそばでもてなす風習が『戸隠そば』の原点になっています。
『戸隠そば』は盛り方が独特です。1人前を1口ずつ5~6つの束を並べます。“ぼっち盛り”といい、名称の由来ははっきりしないようです。そば処は「中社」の鳥居脇に集中していますが、「奥社」入口や「宝光社」付近にもあり、全部で45軒ほどにもなります。
戸隠そば(戸隠観光協会)
URL:https://togakushi-21.jp/spot/genre/soba/
高原リゾートとしても魅力の「戸隠」
「戸隠」には『戸隠神社』を中心としたパワースポットのほかに、国立公園に指定されるほどの大自然の中に、牧場やスキー場、キャンプ場などのレジャースポットも多くあります。飯綱高原や黒姫高原にも近く、大変魅力的なエリアです。『戸隠神社』に立ち寄った際は、行くにはちょっと大変ですが「奥社」まで是非行ってください。その神聖な空気に触れるだけでも価値はあります。宿房に泊まる体験もいい思い出になることでしょう。
基本情報
住所:長野県長野市戸隠
問い合わせ先:戸隠観光協会
電話番号:026-254-2888
アクセス:
公共交通機関/北陸新幹線長野駅から路線バスで約1時間
車/上信越自動車道長野ICから国道18号線、浅川ループライン経由で約50分
脚注1:「天岩戸(あまのいわと/あめのいわと)」伝説
澄み渡った高い空の上に、高天原という神々のお住まいになっているところがありました。そこには天照大御神あまてらすおおみかみさまという偉い神さまがいらっしゃいました。
その弟に須佐之男命すさのおのみことという力自慢で、いたずら好きな神さまがいました。ある時、大御神さまが機はたを織っておられると、須佐之男命は大御神さまを驚かそうと、そっと御殿に忍びより、天井からドサッと馬を投げ入れました。
これには日頃やさしい大御神さまも、さすがにお怒りになられ、天の岩戸という岩屋に隠れてしまわれました。さぁ大変です。世の中はもう真っ暗闇です。困りはてた神さまたちは、天安の河原あめのやすのかわらに集まり相談をしました。
そこで思兼神おもいかねのかみという賢い神さまが一計を案じるのでした。
すでに準備ができると、まずニワトリを一羽鳴かせました。そして天宇受売命あめのうずめのみことという踊りのうまい神さまは、オケの上でトントンと拍子をとりながら踊りだしました。
神さまたちは手をたたいたり、笑ったり、しまいには歌をうたい始めました。
外が余りにもにぎやかなので、大御神さまは不思議に思われ、岩戸を少し開いてみました。その時です。力の強い天手力男神あめのたぢからおのかみは、力いっぱい岩戸を開きました。 真っ暗だった世の中もみるまに明るくなり、神さまたちも大喜びです。
高天原にもまた平和がもどってきました。
参照:天の岩戸 神社本庁
脚注2:フォッサマグナ
日本列島の真ん中には、大地をつくる「大きな溝みぞ」があります。ドイツ人地質学者のナウマン博士がこの「大きな溝」を発見し、フォッサマグナと名づけました。フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな溝」を意味します。
参照:フォッサマグナと日本列島 フォッサマグナミュージアム