京都市左京区、8月の行事「五山の送り火」で有名な大文字山の麓に銀閣寺はあります。
正式名称を東山慈照寺というこの寺院の建設は、1482年に室町幕府の第八代将軍足利義政により着手されました。当初は東山殿と呼ばれており、1486年に東求堂、1489年に観音殿が完成しました。この観音殿が後になり、銀閣と呼ばれるようになります。
銀閣を見るとすぐに気づくのですが、金箔が張られた金閣とは違い、銀閣には銀箔が貼られていません。それなのになぜ、銀閣と呼ばれるのでしょうか? それは江戸時代の人々が金閣に対応する名前として、観音殿を銀閣と呼ぶようになったからです。金色に輝く金閣に比べれば絢爛さという点では確かに及ばないかもしれませんが、銀閣の良さはむしろ質素で落ち着いた雰囲気にこそあります。義政は文学や書画を好んだといいます。銀閣の簡素な佇まいは、世の煩わしさを離れて静かに芸術に打ち込みたいという義政の願いを表しているといえます。義政は1487年に出家し、1489年に没しました。それは銀閣が完成した7か月後でした。没後、義政の法号慈照院に因んで東山殿は東山慈照寺と名付けられました。
銀閣寺の多くの堂宇は1550年に起きた戦乱により焼失してしまいましたが、銀閣と東求堂だけは難を逃れ現在に伝わっています。銀閣は二階建てで、一階は住宅風の造り、二階は禅の影響を受けた禅宗様の造りとなっています。二階部分には黒漆が塗られており、銀閣の簡素で落ち着いた雰囲気に一役買っています。銀閣は、金閣のように建物が圧倒的な存在感を示すということはありませんが、控えめな静けさをにじませるその姿は周囲の光景と上手く調和し、禅の心である「わび・さび」を感じさせてくれます。
東求堂は仏像を拝むための持仏堂としてつくられ、中には阿弥陀如来立像が安置されています。東求堂の中には四つの部屋があり、そのうちの一つに同仁斎と呼ばれる広さ四畳半(約7.45㎡)ほどの部屋があります。義政は自分の書斎としてこの部屋を使いましたが、中では茶を点てることもできるようになっているため四畳半茶室の原型になったとも言われています。また、同仁斎の壁の一つには違い棚や付け書院が備えられていて、後に武士の住宅様式となる書院造の典型的な特徴も併せ持っています。書院造は現代の和室の基になった様式でもあるので、同仁斎は正に今に続く日本の住まいの原型でもあると言えます。
足利義政が生きた15世紀後半には禅宗の影響を受けた簡素で幽玄な文化が生まれました。銀閣寺はその代表であり、正式名称である東山慈照寺にちなんで、この文化は東山文化と呼ばれています。落ち着いた雰囲気の銀閣寺の境内を歩きながら、禅がもつわび・さびを感じてみてはいかがでしょう。銀閣寺は1994年、「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されました。