東京都市部は、江戸時代には徳川幕府の家臣だけでなく、参勤交代制度により全国各地の大名が江戸屋敷を持ち、城下町は大変多くの武士が住んでいました。それに伴って日本橋や浅草界隈には商店街が発達し、花柳界も大いに賑わうなど、決して豊かではないとはいえ、庶民生活も生き生きとしていました。
その模様は幕末(寛永年間/1834~44年)に描かれた住宅地図『江戸切絵図(えどきりえず)』や、安藤広重(あんどうひろしげ/歌川(うたがわ)広重)や葛飾北斎(かつしかほくさい)などの『江戸名所百景』(錦絵[にしきえ])などに描かれていて、その光景が現在でも垣間見られます。
そこで、21世紀の東京都心部の姿がどのような変化を見せ、どのくらい江戸時代が残っているか『江戸切絵図』や『名所江戸百景』などと比較しながら見てみましょう。
※この記事で使用している『江戸切絵図』『名所江戸百景』『江戸名所図会』『広重画帖』『東都名所』などの錦絵、『写真の中の明治・大正』などは、パブリックドメインで一般に公開されているものです。
江戸幕府の庇護を受け大きくなった「浅草寺」
「浅草(あさくさ)」は、江戸時代より続く大繁華街です。江戸時代の繁華街として最初に思い浮かぶのは日本橋界隈と「浅草」ですが、今でいう最先端ファッションの町だった日本橋界隈に対し、「浅草」は『浅草寺』の門前町に広がる大歓楽街といったイメージです。
『浅草寺』は江戸幕府が生まれる1,000年近く前に、隅田川から漁師が拾い上げた仏像を安置したことから始まったと伝えられています。その後は江戸時代まで、鎌倉幕府と関わりをもった以外、歴史上にほとんど登場していません。
1550年、徳川家康が当時はあまり知られていなかった江戸城に入ります。その際に『浅草寺』が戦勝などを願う祈願寺(きがんじ/祈願所)として定められ、徳川家の法事を執り行う菩提寺(ぼだいじ)である『増上寺』に次ぐ地位を与えられ、絶大な力を得たのです。
それ以来『浅草寺』には、本尊、聖観世音菩薩(せいかんぜおんぼさつ)の縁日四万六千日(しまんろくせんにち)の“ほおずきいち”や年の瀬に行われる歳の市“羽子板市”、“三社祭”(現在は『浅草神社』の例大祭)、それに近くの鷲(おおとり)神社での“酉(とり)の市(熊手)”などが開かるたびに、江戸っ子たちが大挙して押しかけるようになりました。雷門(かみなりもん)から仁王門におうもん)までの日本最初の商店街といわれる“仲見世”も江戸時代に半ばにはできていました。
浅草寺
住所:東京都台東区浅草2-3-1
電話番号:03-3842-0181
散策自由
吉原遊郭・歌舞伎3座が「浅草」に集合、賑わいはピークに
江戸時代の「浅草」は、はじめの頃は『浅草寺』の門前以外には田んぼが広がっていました。1657年、江戸が大火に襲われ(明暦の大火)で、それまで神田にあった京都『東本願寺』別院(現在は京都の『東本願寺』との関係はない)が近くに引っ越してきて、多くの関係する寺院が集まり、門前町は南へ大きく広がっていきました。
江戸幕府三代将軍家光(いえみつ)の時代に、もともと現在の中央区堀留(ほりどめ)2丁目辺りにあった遊郭(ゆうかく)が『浅草寺』の北に移転してきました(元あった遊郭を「吉原遊郭」と呼んでいたため、浅草に引っ越したものを「新吉原遊郭」と呼びました)。
江戸時代も後期に入ると、浅草寺境内での相撲が開催され、見世物小屋や寄席屋などが集まってきます。特に1842年に江戸町内点在していた3つの歌舞伎小屋を『浅草寺』に隣接する猿若町(さるわかまち)に集めてからは、男は新吉原に通い、女は歌舞伎にうつつを抜かす大歓楽街へ変化を遂げたのです。
「新吉原」は、現在の台東区千束辺りにあり、畑の中に周りを堀に囲まれた出入り口は大門(おおもん)1カ所という四角い造成地です。その中に200軒以上の遊郭、2,000人以上の遊女がいたといわれています。嘉永6年(1853年)に出版された『江戸切絵図』には浅草寺の北側に畑に囲まれた真四角な「新吉原」が描かれています。縮尺は手書きなので正しくはありませんが、相当な広さだったことが分かります。
「新吉原」の遊郭は1956年(昭和31年)の売春防止法の成立で江戸時代からの歴史に幕を閉じました。
猿楽町に集められた歌舞伎小屋は、『中村座』『市川座』『川原崎座(森田座・守田座)』の3座で、周辺にはほかの芝居小屋や茶屋が並び、特に女性の人気を博しました。芝居小屋は明治初年以降移転が相次ぎ、すべての芝居小屋が猿若町からなくなってしまいました。
浅草橋、柳橋、蔵前も浅草の一部
「浅草」は、『浅草寺』周辺だけでなく西は上野の山(寛永寺)の坂下から西は隅田川まで、南は神田川、北は日暮里・北千住との境を流れる小さな川、恩川(おんかわ/現在はありません)までのかなり広い地域を指していました。明治時代から第2次世界大戦までの期間、東京市浅草区となっていて、東京都になってからは台東区(たいとうく)の西半分を占めるエリアです。現在の地名で、西は元浅草、東は蔵前から今戸、南は柳橋、浅草橋、北は清川となっています。
南の『浅草寺』に向かう街道沿いの神田川には“浅草御門(浅草橋御門、浅草口)”が設けられ、江戸市中を出入りする人を監視していました。浅草御門から浅草寺の門前町手前までは多くの武家屋敷が建ち並んでいて、隅田川沿いには幕府が全国の大名から集めた年貢米を船から降ろしたり、保管したりするための巨大な蔵、“浅草御蔵(あさくさおくら)”がありました。当時は“御蔵”と呼ばれていたのですが、現在の蔵前(くらまえ)がその場所に当たります。蔵前という地名になったのは昭和になってからです。
招き猫が江戸庶民に人気だった「今戸焼」
『浅草寺』から北のエリアは、ほとんどが田んぼや畑になっていました。目立っているのは、中央部分にある「新吉原遊郭」と隅田川沿いの今戸(いまど)です。
「今戸」では江戸の人々が日常で使う茶碗や皿などの陶磁器を製造していました。縁起物としてさまざまな人形も作っていて、『浅草寺』境内や仲見世などで販売していました。その中でも片手をあげた猫の置物が“縁起が良い”として人気になっていて、その模様は安藤(歌川)広重(1世)の『浄瑠璃町 繁花の図(じょうるりまちはんかのず)』に描かれています。
『今戸焼』で焼かれた猫の置物は、日本で最初の“招き猫”といわれています。“招き猫” 発祥の地に関しては全国各地に伝説はありますが、そのほとんどで確証になるものがありません。しかし“今戸の招き猫”は浮世絵に描かれているので、江戸時代には確かに存在していました。
今戸焼の狛犬が残る縁結びで人気の「今戸神社」
『今戸焼』の窯元は幕末頃には50軒を数えましたが、明治時代以降衰退してしまい、2021年現在1軒のみになっています。江戸時代に『今戸焼』で焼かれた一対の狛犬(台東区有形文化財)が『今戸神社』の境内に鎮座しています。
『今戸神社』の名前は『江戸切絵図』では見当たりません。現在今戸神社がある辺りには“八幡松林院(はちまんしょうりんいん)”という名前があるのですが、それが『今戸神社』です。『今戸神社』は、1063年創建で1937年に近くにあった白山神社を合併するまでは“今戸八幡”と呼ばれ親しまれていました。現在では、八幡様の“勝利”と白山様の“縁結び”がタッグを組んだ最強の縁結びの神社として特に女性に人気があります。
今戸神社
住所:東京都台東区今戸1-5-22
電話番号:03-3872-2703
散策自由
URL:https://imadojinja1063.crayonsite.net/
大根が夫婦和合のシンボル、「待乳山聖天」
『浅草寺』から今戸方面へ向かい、『今戸神社』の少し手前に『待乳山聖天(まつちやましょうでん)』があります。創建は1,500年程前で、本殿は小高い丘の上に建っています。“待乳山”とはなんともなまめかしい名称ですが、実のところ聖天が立っている丘の名前で、もともと“真土山”と書かれていたそうです。
『待乳山聖天』のシンボルは、“巾着(きんちゃく)”と“大根”です。 “巾着”はお金が貯まることを意味し、“大根”は夫婦和合。特に大根はお供え物として使われます。まず大根(参道で買えます)をお供えしてお祈りします。そして、帰り際に大根が授与されます。これは、お供え物のお下がりをいただくことで、本尊の徳をそっくりいただくというわけです。
毎年1月7日には「大根まつり」が開催され、参詣者にふろふき大根がふるまわれます。
」
待乳山聖天
住所:東京都台東区浅草7-4-1
電話番号:03-3874-2030
散策自由
URL:http://www.matsuchiyama.jp/
明治時代に「浅草公園」となった浅草寺周辺エリア
明治時代に「浅草公園」となった浅草寺周辺エ浅草寺周辺の一帯は、明治時代に入り東京府により「浅草公園」に指定されます。「浅草公園」は7つに区分され、一区:浅草寺とその周辺、二区:仲見世周辺、三区:浅草寺本堂と伝法院の敷地、四区:林泉池、大池、ひょうたん池周辺(北西部・現在池はありません)、五区:花屋敷周辺、五区:歓楽街、7区:東南部となりました。
四区のひょうたん池は、もともと田畑の広がる土地を掘って人工的に造った池で、展望施設や “浅草12階“といわれた「凌雲閣(りょううんかく)」も完成し、大人気になっていました。「凌雲閣」は1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊してしまいました。また、1951年(昭和26年)にはひょうたん池も埋め立てられて、今は当時の面影はまったくありません。
六区はひょうたん池を造成するために出た土砂で田畑を埋め立て、そこに『浅草寺』裏手などで営業していた見世物小屋などを集めて、歓楽街を作りました。見世物小屋は演芸場や映画館に変わり東京中から人々が集まってきました。その混雑ぶりはその当時の写真を見ても明らかです。
六区はテレビの時代を迎え徐々に衰退していきますが、昔から残る演芸場を中心にさまざまなイベントを企画するなど、徐々にその賑わいを取り戻しつつあります。
基本情報
浅草(浅草雷門)
住所:東京都台東区浅草ほか
問い合わせ:浅草観光連盟
電話番号:03-3844-1221
アクセス:
公共交通機関/東京メトロ銀座線、都営地下鉄、東武鉄道伊勢崎線(スカイツリーライン)、つくばエキスプレス浅草駅下車
車/首都高速道路6号向島線駒形IC、または1号上野IC・入谷IC下車
脚注1:四万六千日(しまんろくせんにち)
東京都台東区の浅草寺の本尊である観世音菩薩の縁日のうち、特に多くの功徳が得られるとされる功徳日のことで、毎年 7月9,10日がその日にあたります。もとは「千日詣り」といい、本来はこの日に参詣すると 1,000日参詣したのと同じ功徳が得られるとされていましたが、享保年間(1716~36)頃から 4万6,000日参詣したのと同じ功徳があるとされ、「四万六千日」と呼ぶようになりました。
脚注2:明暦の大火(めいれきのたいか)
1657年(明暦3)1月18、19日の両日にわたる江戸の大火。振袖(ふりそで)火事、丸山火事ともいいます。18日の午後2時半すぎ、本郷丸山町の本妙寺から出火、おりからの大風のため翌19日にかけて本郷、湯島、駿河台(するがだい)、神田橋、一石(いちこく)橋、八丁堀、霊岸嶋(れいがんじま)、佃島(つくだじま)から深川、牛島新田に延焼しました。一方、駿河台から北柳原、京橋、伝馬(でんま)町、浅草門にも火が及び、19日も風はやまず、小石川新鷹匠(しんたかじょう)町から出火、小石川、北神田から江戸城本丸、二の丸、三の丸を延焼したのです。さらに同日夜麹町(こうじまち)五丁目より出火、桜田一帯、西の丸下、京橋、新橋、鉄砲洲(てっぽうず)、芝に及びました。火元は以上三か所で、類焼地域は江戸全市に及び焼死者は10万人を超えたのです。
参照:明暦の大火 コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB-141188
脚注3:遊郭(ゆうかく)
平安~鎌倉時代に発達した遊女屋を、江戸時代、幕府の都市政策の一つとして特定区域に強制的に集中して公認したもの。江戸の吉原、大坂の新町、京都の島原、長崎の丸山などが有名です。
参照:遊郭とは コトバンク