蔵造りの商店街が人気の「小江戸川越」

川越の蔵造りの街並
(画像提供:(一社)埼玉県物産観光協会)
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川越市は、埼玉県南部、東京都との県境に近い川越街道沿いに位置する、蔵造りの町並みが残る旧川越藩の城下町です。別名を“小江戸川越”と呼ばれるように、江戸時代には徳川家と非常に関わりが深い町で、城下町として、また江戸への農産物やさまざまな物資の集散地として発展しました。町は何回かの大火を経て、「蔵造りの町並み」ができあがったのは明治時代になってからです。

川越の蔵造りの街並
(画像提供:(一社)埼玉県物産観光協会)

太田道灌によって築城された「川越城」

川越は、平安時代から鎌倉時代にかけて河越氏が支配し、鎌倉幕府からは重用されていました。しかし鎌倉幕府の末期には新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕派に鞍替えし、その後は反新田氏の足利尊氏(あしかがたかうじ)に加勢し、その戦功から室町幕府初期(南北朝時代)には関東守護職の地位を得ます。

やがて足利氏とも対立し、1368年に周辺の氏族とともに起こした武蔵平一揆(むさしへいいっき)で破れ、没落しまいます。

しばらくは幕府直轄地として管理されますが、室町幕府末期の1457年には、江戸城を築城したことで知られる太田道真(おおたどうしん)、道灌(おおたどうかん)親子によって川越城(河越城)が築かれ、城下町の基礎が造られました。

江戸時代に入り、川越城には徳川家康の重臣だった酒井重忠(さかいしげただ)が入城し、川越藩(1万石)が成立しました。その後も松平信綱(まつだいらのぶつな)や柳沢吉保(やなぎさわよしやす)など江戸幕府の大老や老中を担った大物が藩主を務めるなど徳川家と深いつながりを持ち続け、最終的には17万石まで出世しています。

松平信綱によって整備された川越の城下町

川越の住宅外観

川越の町が大きく変化したのが1638年の大火です。町中を炎が襲い壊滅的な被害を受けます。翌年に藩主となった松平信綱は川越復興に乗り出し、城や町を造り直し現在ある町割りを完成しました。同時に江戸に通じる街道(川越街道)や町を流れる新河岸川を整備し、江戸との交流を深めることによって、川越を流通拠点として発展させることに成功します。

新河岸川の桜の花いかだ
(新河岸川 画像提供:(一社)埼玉県物産観光協会)

新河岸川は荒川に合流し、舟で江戸まで大量の物資を運ぶことができるため、周辺のさまざまな物が川越を経由することになったのです。しかしその時の町並みは大火があったにもかかわらず、耐火建築は少なく、相変わらず多くの木造の商家が並んでいました。

明治26年に襲った大火で1,300軒を焼失

時代は明治になり、川越は水運を中心にますます発展します。しかし、1893年(明治26年)に再び悲劇が襲います。

火元の1軒から立ち上った火は、木造家屋を伝って瞬く間に町中に広がっていきます。人々の決死の努力むなしく、町の3分の1、1,300軒の民家を焼き尽くしてしまいました。しかし、そこは財力のある川越商人たちです。すぐに復興にとりかかります。まずは火災に強い建物造ること目指したのですが、その手本としたのが東京日本橋の建物でした。

大火後、「蔵造りの町並み」が完成

川越の蔵造りの街並み2

当時の日本橋は、文明開化後の西洋文化がどんどん輸入されていた時代で、レンガや石という耐火性の高い材料を使った大きな建物が次々に建てられていました。しかしレンガや建物に使われるような成形された石は、川越ではなかなか手に入らない素材でしたので、川越商人が選んだのは伝統的な漆喰を使った蔵造りです。しかし、そこは川越の豪商たち。単純な蔵造りではなく、随所にレンガや御影石や大谷石などを取り入れ、豪華で他とはひと味違った蔵造りの店舗を完成させました。

川越|商店が軒を連ねる

蔵といえば一般的には大切なものしまう場所、つまり倉庫として利用されてきたのですが、川越の場合はほとんどが“店舗”です。第2次大戦後になって、これが店舗として「暗い、古くさい、邪魔」といわれ、次々と建て替えられていきました。しかも、川越の商店街の中心は少し離れた鉄道の駅前に移っていき、1960年代半ばには「蔵造りの町並み」は「人通りがほとんどなく犬が散歩するだけ」といわれるほど閑散とした、さびしい商店街となってしまったのです。

1999年、重要伝統的建造物群保存地区に指定

その後、1975年になって、どんどん失われていく日本の伝統的文化を見直そうと『文化財保護法』が改定され、伝統的建造物群保存地区の制度が誕生します。川越は少なくなったとはいえ、蔵造りの民家がかなり残るためその候補となったのですが、保存指定されることによって蔵造りの家を手放したり、改築したりすることが制限されることなどから持ち主らが反対し、実現に至りませんでした。そうするうちに、近くに高層マンションができたり、蔵造りの家を売りに出したりする人も多くなって、町並みは失われる危機に見舞われます。

蔵造りの住宅の屋根部分

そんな中で、「蔵造りの町並み」を残したいという有志が『川越蔵の会』を結成し、住民たちの説得や、川越市にも調査や保存事業を働きかけ続けました。そのかいあって1999年に一番街商店街を中心に7.8ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けたのです。

人が行き交う川越の重要伝統的建造物群保存地区
(画像提供:townphoto. net)

川越は2019年(令和元年)には780万ほどの観光客が訪れる、東日本を代表する観光地となっています。

蔵造りの商家が立ち並ぶ「一番街商店街」

川越|一番街商店街
(画像提供:townphoto. net)

「蔵造りの町並み」の中心になる商店街です。蔵造りをはじめ70軒のほどの商店が道路の両側に立ち並んでいます。道路から電柱をなくし、歩道と車道の段差をなくし、歩道を石畳にするなど、美しい町並みを実現しています。

商店街には、明治26年の大火の際も焼けずに残った築200年余の蔵造り商家で、国の重要文化財に指定されている『大沢家住宅』があります。

江戸時代の蔵造り商家「大沢家住宅」

川越|大沢家住宅
(画像提供:townphoto. net)

「大沢家住宅」は、1792年に最初から蔵造りとして建てられたものです。1階は店舗で、2階前面には土格子があり、外観は全体的に簡素な造りになっています。この建物は、明治26年大火の際も焼けずに済みました。

1989年から4年をかけて大改修を行い、できる限り建設当初の姿に復元されています。国の重要文化財です。現在はお土産店として営業しています。

蔵造り保存のきっかけとなった「蔵造り資料館」

川越|蔵造り資料館

「蔵造り資料館」は、もともと煙草(たばこ)商を営んでいた小山家の建物で、明治26年大火の後、蔵造りで建てられたものです。建物は1970年代初頭に売りに出されていたのですが、貴重な蔵造りを残したいという住民の熱意に押された川越市が買い取り、資料館にしました。川越の蔵造り保存運動がここから始まったという記念碑的な建物です。

内部は商家の構造や間取り、庭などを見学でき、川越独特の蔵造りを体感できます。

蔵造り資料館

電話番号:049-225-4287

開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)

入館料:一般 100円、大学生・高校生 50円、中学校以下無料

休館日:月曜日(祝休日の場合は翌日)、第4金曜日(休日は除く)、年末年始(12月28日から1月1日)

URL:https://www.kawagoe.com/kzs/

今でも時を知らせる「時の鐘」

川越|今でも時を知らせる時の鐘

「時の鐘」は、江戸時代より“時”を知らせる鐘つき場として現在の場所に建っていました。設置したのは1630年頃、最初の川越藩主酒井忠勝が建てたといわれていますが、現在のものは明治26年大火の翌年に再建されたものです。

高さは16メートル、3層構造になっていて、川越のシンボルとして今でも1日4回、6:00、12:00、15:00、18:00に鳴らされています。

大人気の川越名物「菓子屋横町」

川越|菓子屋横町

「菓子屋横町」は、1923年の関東大震災で製造ができなくなった東京のお菓子屋に代わって、大量の駄菓子の注文を受けた川越のお菓子屋さんが集まってできた横町です。昭和初期には70軒もの店があったといわれていますが、現在は20数軒が営業しています。いつでも多くの観光客で賑わっている、川越きっての人気エリアです。

甘いノスタルジックな香りが漂う横町は環境省の「かおり風景100選」に選ばれています。

川越城で唯一の遺構「川越城本丸御殿」

川越城本丸御殿

「川越城」は、1457年に太田道真・道灌親子によって築城されたものですが、1639年藩主になった松平信綱が大規模に拡張し、本丸はじめ二の丸や三層の富士見櫓など多くの建造物を建てました。敷地面積は広大で、4万6000坪(約15万㎡・東京ドーム約3.2個分)もありました。

現在の「本丸御殿」は、1848年に藩主松平斉典(まつだいらなりつね)が建てたもので、玄関及び大広間、敷地内から移築した家老詰所が当時のまま現存しています。

川越城本丸御殿

問い合わせ:川越市立博物館

電話番号:049-222-5399

開館時間:9:00~17:00

入館料:一般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下無料

休館日:月曜日(祝休日の場合は翌日)、祝日を除く第4金曜日、12月29日~1月3日

「蔵造り町並み」以外にも歴史的遺産が多く残る川越

氷川神社の縁結び風鈴
(川越氷川神社 縁結びの風鈴 画像提供:(一社)埼玉県物産観光協会)

蔵造りの町並みには30数棟の蔵造り商家が残っていて、古い酒蔵やお土産屋さん、飲食店も多く、「菓子屋横町」は小さいこどもからおとなまで楽しめます。周辺には喜多院や川越氷川神社、川越八幡宮などの由緒ある神社仏閣も多く、一日たっぷりと散策でき、「栗よりうまい十三里」と呼ばれた名産サツマイモの本格料理も美味です。


小江戸川越

住所:埼玉県川越市

問い合わせ先:小江戸川越観光協会

電話番号:049-227-9496

アクセス:

公共交通機関/JR川越線、東武東上線川越駅または西武新宿線本川越駅下車
車/関越自動車道川越IC下車約10分

小江戸川越ウェブ | 小江戸川越観光協会
都心から30分。江戸の情緒を今に残し、明治・大正・昭和・平成の4つの時代を体験できる、埼玉県川越市。小江戸川越のレトロな町並みで、ちょっぴり非日常な旅にでかけませんか?

脚注1:新田義貞(にったよしさだ)

鎌倉末期・南北朝時代の武将。

参照:新田義貞 コトバンク

新田義貞(にったよしさだ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - 新田義貞の用語解説 - 鎌倉末期から南北朝初期にかけての武将。朝氏の長子。上野国(群馬県)の人。小太郎という。元弘の乱では北条方として千早城攻撃に加わったが、元弘三年(一三三三)には北条高時を鎌倉に破った。建武新政で功臣として武者所の頭人となる。や...

脚注2:足利尊氏(あしかがたかうじ)

室町幕府初代将軍。

参照:足利尊氏 コトバンク

足利尊氏(あしかがたかうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - 足利尊氏の用語解説 - 室町幕府初代将軍。はじめ高氏。後醍醐天皇の諱(いみな)尊治の一字を賜わって尊氏と称した。元弘の変で六波羅を攻め落として建武の新政に貢献するが、のち背いて持明院統の光明天皇を立てて建武五年(一三三八)八月征夷大将軍となり、室町幕...

脚注3:南北朝時代(なんぼくちょうじだい)

1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。

参照:南北朝時代 コトバンク

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - 南北朝時代の用語解説 - 中国が江南の南朝と華北の北朝とに分裂対立した時代。五胡十六国の紛乱や東晉の滅亡から隋の再統一までの約一七〇年間をいう。北方民族の進出や江南の開発により、貴族政治が発達、九品官人法・均田制・三長制などの制度が実施され、文芸...

脚注4:武蔵平一揆(むさしへいいっき)

1368年(応安元年)河越直重、江戸高良、高坂氏重、豊島氏 など平姓秩父氏を中心に、 瓦葺氏、見田氏、古尾谷氏など武蔵国の武士を中心に上杉憲顕に対して反旗を翻した戦い。

参照:平一揆の乱

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脚注5:太田道真(おおたどうしん・資清[すけきよ])・大田道灌(おおたどうかん・資長[すけなが])

太田道灌は太田資長(道真)長男。 1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とし、またこの年、父の指導で岩槻・河越両城の築城にも着手したといわれています。

参照:太田道灌 コトバンク

太田道灌(おおたどうかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - 太田道灌の用語解説 - 室町中期の武将。歌人。扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事。資清(すけきよ)の子。名は持資(もちすけ)、のち資長。江戸城などを築いて関東一帯に勢力を広めたが、山内・扇ガ谷両上杉氏の対立のため上杉顕定の中傷により主君定正に暗殺された...

脚注6:九里四里(栗)よりうまい十三里(くりよりうまいじゅうさんり)

江戸からサツマイモの産地川越まで13里ある、という説があります。

参照:さつまいもの日 せいぶ農産

さつまいもの日
10月13日はさつまいもの日です。