東北地方の各地にはL字型をした藁葺き(茅葺き)屋根の古民家が残っています。「曲家(曲り家[まがりや])」といい、特に福島県の会津地方や岩手県(南部曲り家)に多くあります。
会津の「曲家」は、農耕用の馬を家族と考え、家の中に厩(うまや・馬小屋)を作って一緒に暮らしていたのですが、「南部曲り家」は、ほぼ同じ造りで馬と一緒に暮らすという意味では同じ「曲家」ですが、多少その目的が違っていました。
南部藩の支配地域で発達した「南部曲り家」
「南部曲り家」は、江戸時代に岩手県のほとんどと、青森県の下北半島から八戸周辺地域を領地にしていた大名、南部家が関わっていたためにその名称で呼ばれています。
南部家は鎌倉幕府を開いた源氏にゆかりのある甲斐源氏(かいげんじ)の一族で、はじめは甲斐国南部(現山梨県南部町)に領地が与えられ、に南部姓を名乗りました。その後源頼朝(みなもとよりとも、1147年~1199年)の奥州征伐(おうしゅせいばつ・奥州合戦[おうしゅうがっせん]・1189年)に随行し、その報償として東北地方東部(糠部郡[ぬかぶぐん]・かつてあった地名)を拝領したのが南部藩の始まりといわれています。
南部藩(別名盛岡藩)は、江戸時代にはもともと青森県南部(現青森県三戸町[さんのへまち])にあった居城を岩手県盛岡に移し、幕末まで続いています。
軍用馬を飼育するための「南部曲り家」
南部藩ではさまざまな産業を保護し、南部鉄器や酒造り(南部杜氏[なんぶとうじ])、南部せんべいなどが有名ですが、南部駒(なんぶこま)もよく知られています。“駒”とは馬のことです。
もともと東北地方東部は労働力として有用な、非常に力強い馬の産地でした。南部藩では馬を軍用に利用しようと考え、藩で牧場を作り飼育を始めました。そして、農民たちにも馬の飼育を奨励したのです。
江戸幕府も馬の軍事的な重要性を認めていて、江戸幕府3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)は、オランダから輸入されたペルシャ馬(アラブ種)のオスメス2頭の馬を南部藩に預け、馬の改良を命じています。さらに、8代将軍吉宗(よしむね)もペルシャ馬1頭を贈ったという記録があります(青森県産三戸町 馬歴神社(ばれきじんじゃ)の「唐馬の碑(からうまのひ)」)。
南部藩の農民は元来農耕用として馬を飼育していたので、馬の扱いには慣れていました。藩から軍用馬を預かり、育てることは難しいことではありませんでした。多くの農家が軍用馬飼育を手がけていて、「曲家」が多く建てられています。
「曲家」は、冬の寒さをしのぎ快適に過ごすいちばんいい飼育方法だったため、南部藩の領地に広がっていった家の形式ですが、その成立に関してはよく分かっていません。
参照:南部曲家研究の展望と課題 岩手大学
会津地方の「曲家」とは違う内部構造
「南部曲り家」は、同時期に福島県会津地方を中心に広まっていた「曲家」とは内部構造が一部違っています。
会津地方の「曲家」は、農耕用に馬を飼育していたので、育てるのはせいぜい1~2頭でした。そのため厩はそれほど大きくする必要はありません。厩の脇には通路があり、突き当たりは出入り口になっています。(馬と暮らす「曲家」1 会津地方の「曲家」 参照)
一方の岩手県の「曲家」は、軍用馬数頭を飼育していたとみられ、厩部分が大きくL字型の短い部分すべてを厩で使っています。そのため厩部分には人の出入り口がなく、「曲家」全体も会津地方のものにくらべ大きく立派です。軍用馬を育てる農家は藩から重用されていたことがうかがえます。
「南部曲り家」も時代とともにその役割を終え、次々と取り壊されていき今ではごくわずかに残っているだけになってしまいました。現存する「南部曲り家」は、6軒が移築保存されている「遠野(とおの)ふるさと村」や「遠野伝承園」「盛岡手づくり村」などで見学することができます。その中には国の重要文化財に指定されている建物が3軒あります。
「曲家」が6軒移築保存されている「遠野ふるさと村」
「遠野ふるさと村」は、岩手県遠野市にある、昔懐かしい農村を再現した施設です。村内には江戸時代中期から明治時代中期にかけて遠野に建てられていた茅葺き屋根の民家などを移築し、さまざまな農村体験や陶芸体験、染め物体験などができます。
茅葺き屋根の民家のうち6軒は「南部曲り家」で、いずれも農家としてはかなり大きく、立派です。ほかに曲がった部分のない長方形をした直家(じきや)が1棟保存されています。「曲家」のうち1棟は1999年(平成11年)に改装されていて、建築当時の面影はあまりありませんが、染工房として活用されています。
遠野ふるさと村
住所:岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛5-89-1
電話番号:0198-64-2300
開園時間:
3月~10月/9:00~17:00(受付は16:00まで)
11月~2月/9:00~16:00(受付は15:00まで)
定休日:
冬季(12月~3月)/水曜日、年末年始
4月~11月/無休
入園料:おとな 500円、小中高校生 330円
アクセス:
公共交通機関/JR釜石線遠野駅から路線バスで約25分
車/東北横断自動車道(釜石自動車道)遠野ICから約15分
URL:http://www.tono-furusato.jp/
「遠野伝承園」に移築された国の重要文化財「旧菊池家住宅」
「旧菊池家住宅」は、岩手県遠野市にある「遠野伝承園」内に、移築保存されている「曲家」で、国の重要文化財に指定されています。
建築年代は江戸時代後期で、典型的な「南部曲り家」です。建築当初は直家だったのですが、軍用馬を飼育するために曲家をあとから増築しています。
「遠野伝承園」は、「曲家」や「水車小屋」「つるべ井戸」「湯殿(お風呂)」などの建物を移築し、古くからある遠野の伝承行事を再現したり、昔話を聞いたりできる施設です。民芸品の製作体験もできます。
遠野伝承園
住所: 岩手県遠野市土淵町土淵6地割5-1
電話番号:0198-62-8655
開園時間:9:00~16:00(入園受付15:30まで)
入園料:おとな 330円、小中高生 220円
休園日:無休
アクセス:
公共交通機関/JR釜石線遠野駅から路線バスで約25分、足洗川バス停下車徒歩約3分
車/東北横断自動車道(釜石自動車道)遠野ICから約10分
URL:http://www.tono-furusato.jp/
岩手県の名産品が集まった「盛岡手づくり村」
「盛岡手づくり村」は、岩手県盛岡市にあるさまざまな手作り体験ができる『手作り工房』と『南部曲り家』、物産館などがある『盛岡地域地場産業振興センターゾーン』という3つのゾーンに分かれた複合施設です。『手作り工房』には南部せんべいや盛岡冷麺、南部鉄瓶など15ほどの工房があり、見学や手作り体験などができます。
『南部曲り家』は江戸時代後期に建てられた曲家が移築され、厩や土間などほとんど昔のままの農家が見学できます。
盛岡手づくり村
住所:岩手県盛岡市繋字尾入野64-102
電話番号:019-689-2201
営業時間:8:40~17:00
休館日:年末年始
入館料:100円
アクセス:
公共交通機関/東北新幹線・JR東北本線盛岡駅から路線バスで約30分
車/東北自動車道盛岡ICから約25分
最上級の農民宅、「千葉家住宅」
「千葉家住宅」は、江戸時代後期、天保年間(1830年~1844年)に建てられた「曲家」で、非常に大きな屋敷です。遠野市から盛岡市に向かう国道396線沿いの小高い丘の上にあり、当時の上層農民が建てた最高級曲家として威容を誇っています。保存状態が良く国の重要文化財に指定され、見学できます。
千葉家住宅
住所:岩手県遠野市綾織町上綾織1-14
問い合わせ先:遠野文化研究センター
電話番号:0198-62-2340
公開時間・入館料・休館日等に関しては要問い合わせ
アクセス:
公共交通機関/JR釜石線遠野駅からタクシーで約18分
車/釜石自動車道東和ICから約35分
古い形式の南部曲り家、「旧佐々木家住宅」
「旧佐々木住宅」は、1700年代中頃に建てられたと推測されている「曲家」で、岩手県北部の農家として、古い形式が残っている貴重な建物です。国の重要文化財に指定されています。
もともとは岩手県岩泉町にあったのですが、現在は盛岡市の「岩手県立博物館」に移築され、公開されています。
岩手県立博物館
住所:岩手県盛岡市上田字松屋敷34
電話番号:019-661-2831
開館時間:9:30~16:30(入園受付16:00まで)
入館料:おとな 310円、学生 140円
休館日:月曜日(祝休日の場合はその翌平日)、年末年始、資料整理期間(要問い合わせ)
アクセス:
公共交通機関/東北新幹線・JR東北本線線盛岡駅から路線バスで約30分、松園バスターミナルバス停下車徒歩約20分(松園バスターミナルからの路線バスあり)
車/東北自動車道盛岡ICから約25分
URL:http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/
脚注1:甲斐源氏(かいげんじ)
武田氏の先祖といわれる「甲斐源氏」。その祖は清和源氏(せいわげんじ)の一族で、平安時代の名将源義光(みなもとよしみつ・新羅三郎[しんらさぶろう])といわれています。義光の子孫は常陸国(ひたちのくに・茨城県)から甲斐国(山梨県)に移り住み、甲府盆地一帯に本拠を築いて「甲斐源氏」と呼ばれるようになりました。
山梨県南巨摩郡南部町の町名の由来でもある南部氏も、甲斐源氏の庶流です。南部氏は源義光から数えて5代目の子孫にあたる加賀美遠光(かがみとおみつ)の三男、南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき・南部光行)が祖とされています。南部三郎光行は1180年の石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたことから、甲斐国南部牧(南部町)を与えられました。このとき、その地名にちなみ南部姓を称したといわれています。
源頼朝による奥州征伐が始まると、南部三郎光行は奥州藤原氏討伐でも功績をあげ、糠部五郡(現在の青森県から岩手県にかけて)を拝領し、その後、盛岡周辺の発展に大きく寄与したと伝えらえています。
参照:山梨の歴史を旅するサイト 「山梨に源氏の名門「甲斐源氏」あり」
公益社団法人やまなし観光推進機構
脚注2:奥州征伐(おうしゅせいばつ・奥州合戦[おうしゅうがっせん])
文治5 (1189) 年,源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を征伐した戦い。
参照:コトバンク 奥州征伐 https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90-38705
脚注3:糠部郡(ぬかぶぐん)
古代律令政府の支配が及ばなかった本州最北部に、平安時代後期ごろから使われた郡名です。現岩手県北部から青森県東半部にあたります。
参照:コトバンク 糠部
脚注4:南部杜氏(なんぶとうじ)
杜氏とは「酒造り」に係る全般を「蔵元」から任され、蔵内の一切に関する仕事の長として「蔵人」全員に指揮をする指揮官のような存在です。「蔵元」であっても「杜氏」に指図することは出来ません。
南部杜氏は南部藩で酒造りをしていた杜氏で、仕込みの時期には杜氏として出稼ぎに出ていたため、全国にその名を広めました。
参考:〈技 術 ・技能 の伝 承 〉南部杜氏の背景と現状 そしてわたしの酒造り 岡市次治
脚注5:唐馬の碑(からうまのひ)
馬種改良に関心があった八代将軍吉宗から盛岡藩に下賜されたペルシャ産の馬。盛岡藩九牧の一つ住谷野(三戸代官所管内)に放たれ、春砂(ペルシャ)と呼ばれ種馬に用いられたが、9歳で死に、御野馬別当石新右衛門(号は玉葉)は唐馬(外国産の馬)追善のため、馬頭観世尊としてまつり、追喜の句2句を添えて建碑しました。
参照:青森県文化財保護 唐馬の碑 https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kensiseki_03.html
三戸町 唐馬の碑と馬暦神社 https://www.town.sannohe.aomori.jp/soshiki/kyouikuiinkaijimukyoku/rekishi_bunka/sannohe_jinjya/1758.html